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Section 9.5 社会における包摂と排除

社会の機能的分化が進むことは、それぞれの組織に所属する人間にとって、その組織に関する専門分野のみに詳しくなることを意味する。 その分野や組織では専門家として通用しても、その組織を一歩出ると、他の組織や他の分野では通用せず、全くの素人となる。 また、元の組織で通用していた「常識」や「内輪ネタ」などの成果メディアも通用しなくなる。 従って、もし所属する組織を何らかの理由で脱退した場合、他の組織にも入れなくなってしまう。 このようにして、人間があらゆる組織から脱退させられ、社会で居場所を失うことを社会的な排除(exclusion)という。 社会の機能的分化が進むほど、社会的排除に直面する可能性は大きくなる。

組織の中で不祥事や犯罪を起こすなど、排除されるべくして排除されることは、ある程度は当然であり、仕方ない側面もある。 だが、命令を忠実に実行できる機械と異なり、人間は完璧ではなく、時に矛盾し時に失敗する生き物である。 年齢を重ねれば人間は成長するが、意図的であるか否かを問わず、一時の気の迷いや、些細な過ちで失敗することは人生の中で多々ある。 そうした人間の性質を考慮すると、排除傾向の強い社会は、人間にとって非常に生きづらい組織となる。

また、組織から排除されることは、同時にその組織で通用する成果メディアを失うことも意味する。 そうして成果メディアが極めて限定された社会の例として、Luhmannはスラム地区を挙げている[28][31]。 他の社会から排除された人々が集まるスラムでは、他者とコミュニケーションできることは「ありそうにない」ことである。 愛や貨幣といった成果メディアが失われた社会では、これらに依拠するコミュニケーションが期待できない。 円滑なコミュニケーションが期待できない以上、いつ他者が物や金銭欲しさに自らを襲ってこないとも限らず、治安が不安定になる。 また、そうした社会で生きるためには、常に他者に対して警戒することが必要であり、精神的にも非常に負担が大きい。 従って、排除傾向の強い社会は不安定であり、持続可能でない

従って、社会を持続可能にするには、排除傾向を弱めた包摂(inclusion)の社会が形成されることが望ましい。 いわゆるセーフティネットなどの制度や、ボランティアや自助グループなど排除されやすい人々を支える組織を新たに設けることは、そうした社会を目指す一つの方法ではある。 だが、これらはあくまで対症療法的な解決策であり、排除に対する根本的な解決ではない。

Luhmannはより根本的な解決策として、他の組織や他者への無関心や無視を取り去ることが必要だと述べている[31]。 社会を形成する一人ひとりが視野を狭めずに周囲に関心を向けていくことで、他者に対するより深い理解が可能になる。 他者の問題を自らの問題と重ねあわせて捉え、自らが排除される可能性があることを考慮すれば、他者への過剰な排除に加担することはなくなる。 そうして、機能的分化による社会の高度化を維持しながらも、持続可能な社会を形成していくことが求められる。

注釈 9.9. 障害の社会モデルとデザイン.

障害学における障害の基本的な捉え方として、次の2つのモデルがある[46]

  • 医療モデル: 障害を個人の限界を表すものとみなす。治療や器具、技術を使って努力することで、「障害者」は「健常者」の社会への適応を目指すべきだとする。

  • 社会モデル: 障害を社会のしくみにより生じるものとみなす。社会を変化させることを通して各種の障害を除いていくべきだとする。

旧来の医療モデルに依れば、障害は個人の責任に関する問題となる。 例えば、人間の側の不注意に起因するヒューマン・エラー(human error)も、本人が注意して改善すべき問題であるとされる。 医療モデルはすべての人間を画一的な形式に適応させることを志向し、適応できない人間を社会から排除する。 だが、肉体や持っている能力、文化的背景などが多様な人間がいることを考慮すれば、このモデルに従った社会の維持には限界がある。

一方の社会モデルに依れば、そうしたヒューマン・エラーは社会の側の問題となる。 そのため、不注意によるミスを生じさせるデザインを改善して、誰もが使えるユニバーサル・デザイン(universal design)を目指す必要がある。 ユニバーサル・デザインは理念としては優れており、デザインの方針としては重要だが、多様な利用者がいることを考慮すれば、本当に「誰でも」利用できるデザインの実現はきわめて困難であり、現実的ではない。 そこで近年では、多様なデザインの利用者が直接デザインの過程に参加するインクルーシブ・デザイン(inclusive design)も提唱されている。