Skip to main content

Section 5.3 メディアの分類

Luhmannは、メディアを伝播メディアと成果メディアに分類した[26][27][31]。 機械情報を物理的に媒介するのが伝播メディア、社会情報を論理的に媒介するのが成果メディアである。 これらの存在により、5.1節の「ありそうにない」ことが「ありうる」ことになる。

伝播メディアと成果メディアはそれぞれ、機械情報と社会情報の部分集合として定義できる。

定義 5.2. メディアの分類.
\((\alpha, \beta)\)を情報とする。
  • 機械情報\((\alpha, \varepsilon)\)の集合\(I_M\)の部分集合を伝播メディアという。

  • 社会情報\((\alpha, \beta)\)の集合\(I_S\)の部分集合を成果メディアという。

\begin{align*} \text{伝播メディア} \amp \subset \{ (\alpha, \varepsilon) | \alpha: \text{表現} \}\\ \text{成果メディア} \amp \subset \{ (\alpha, \beta) | \alpha: \text{表現}, \beta: \text{内容} \} \end{align*}

4.2に両端付きの矢印でそれぞれのメディアを追記すると、図5.3のようになる。

5.3. Luhmannのコミュニケーション・モデルとメディアの対応

Subsection 5.3.1 伝播メディア

新聞や放送は、文章や番組を機械情報として、紙や電波という物理的な物質を使って伝播することで、時間的・空間的に離れた相手とのコミュニケーションを可能にする。 このように、機械情報を物理的に媒介するメディアを伝播メディアという。 伝播メディアの存在により、5.1節で挙げた「ありそうにない」ことの1つ目が、「ありうる」ことになる。

TVや新聞、雑誌などのいわゆるマスメディアや、書籍やCD、インターネット、電話、SNS、また音や空気なども、機械情報を伝播する点では同様であり、伝播メディアである。 一般的に「メディア」と呼ばれるほぼすべてが、伝播メディアにあたる。

Subsection 5.3.2 成果メディア

一方の成果メディアは、情報の送り手と受け手の間で社会情報を論理的に媒介するメディアである。 成果メディアの「成果」は、その存在によってコミュニケーションの成果が上がり、コミュニケーションが円滑に進むことで、相手が自分の主張を受け入れやすくなるということを表している[37]。 成果メディアの存在により、5.1節で挙げた「ありそうにない」ことの2つ目が、「ありうる」ことになる。

最も基本的な成果メディアには、特定の組織でのみ通用する「内輪ネタ」「暗黙のルール」「常識」組織文化伝統などがある。 これらは、その存在によって組織内のコミュニケーションを円滑に進められるので、成果メディアである。

人間の社会をより大きな「組織」とみなしたとき、人間社会に存在する成果メディアとして、Luhmannは真理貨幣権力宗教芸術を挙げている[26][27]。 これらは、人間社会という「組織」でのコミュニケーションを円滑に進められるものであり、成果メディアである。

成果メディアが「メディア」であることを、法を例にして述べる。 交差点に歩行者と車の運転手がいて、停止中の車の前を歩行者が横断したいとする。 ここで、歩行者側が青信号、車側が赤信号であれば、歩行者は安全に道路を渡ることができる。 このとき歩行者と運転手の間に、道路交通法というを媒介とするコミュニケーションが成立している。 運転手は道交法に基づき、赤信号を遵守して、信号が変わるまで発進しない。 歩行者も道交法に基づき、運転手が赤信号を遵守し、信号が変わるまで発進しないだろうと予期する。 道交法を媒介とした結果、歩行者は安全に道路を渡れるため、法はコミュニケーションを秩序づけているといえる。

注釈 5.4. 作用する成果メディアの違い.

コミュニケーションにおける最初と最後の状態が同じでも、どの成果メディアが作用するかにより、コミュニケーションの内容は異なったものとなる。 例として、災害後に瓦礫の下敷きになって動けない人がいる横を、誰かが通りがかった場合を考える。 このとき、下敷きになっている人の存在に気づけば、たとえその人が助けを求めていなくても、多くの人はその人を助けようとするだろう。 「瓦礫の下敷きになっている人がいる」という最初の状態に対しては、大抵の場合、「下敷きになっている人を助ける」という最後の状態がくると考えられる。

だが、他人をなぜそのように助けるかという理由には、次のように様々なものが考えられる。

  • 「下敷きになっている人も自分と同じ人間だ(から助ける)」という「

  • 「下敷きになっている人を放置すれば死ぬ(から助ける)」という「真理

  • 通りがかりの人がレスキュー隊の隊員であれば、救助作業によって「貨幣」を報酬として得るので、「お金を得るための仕事だ(から助ける)」

  • 保護責任者遺棄致死罪などの「」の存在により、「助けなければ罰せられる(から助ける)」

  • 町長や自治会長が「負傷者を見つけたら救助するように」と住民に指示しており、その「権力」に従い、「長の命令に従う(から助ける)」

  • 「困っている人を助けること」を教義とする「宗教」を信奉しており、「教義に従う(から助ける)」

通りがかりの人と下敷きになっている人の間にこうした成果メディアが存在し、そのいずれかが両者を媒介することで、コミュニケーションが成立して円滑に進む。 これらの成果メディアが存在しない場合は、自分にとって利益をもたらさない可能性が高い「見知らぬ他人を救助する」という行為は生じにくい。

コミュニケーションにおいて、送り手\(A\)と受け手\(B\)が成果メディア\(M\)を共有している状況を考える。 このとき、送り手\(A\)は表現の選択、つまり符号化を行い、受け手\(B\)は理解の選択、つまり復号を行う。 この符号化と復号において、いずれも成果メディア\(M\)が参照されるとすれば、情報が正しく伝わる可能性は高いといえる。 但し、3.4節で述べた情報の主観性があるため、正しく伝わらないこともある。

先の命題を用いれば、コミュニケーションにおける次の命題は明らかである。

Subsection 5.3.3 生命情報を媒介するメディア

伝播メディアは機械情報を、成果メディアは社会情報を、それぞれ媒介するメディアであるのと同様に、生命情報のレベルでコミュニケーションを媒介するメディアも想定できる。 もしそうしたメディアが存在すれば、回りくどく社会情報や機械情報を経由せずとも、送り手から受け手へ思考を伝え合える。

生命情報を媒介するメディアがあるとすれば、まさしくテレパシー(telepathy)である。 テレパシーが存在するかや実現できるかには、学術研究からオカルトに至るまで様々な言説があり、議論の余地がある。 だが、少なくとも現時点では、多くの人間がテレパシーを自由に利用できる段階に到達していないことは確かである。 従って、遠回りにはなるが、社会情報や機械情報という形を経由して情報を伝える必要がある。